脱怠惰

毎日書こうとすると続かないので、気が向いたら書く

2024/02/19

ベイアーの忠告に従えば、道徳教育者の使命は、「なぜ私は道徳的でなければならないのか」という道徳的利己主義者の問いに答えることではなく、「どうして私は親戚でもない、不愉快な習慣を持つ、あかの他人のことを心配しなければならないのか」という、もっとしばしば発せられる問いに答えることだ、ということがわかるでしょう。

『人権について』、p163

 

朝、意外と早く起きる。あさからお風呂周りの掃除と洗濯をする。

ふとしょに本返して本借り手大垣書店でその本を読む。

 

借りたのはロールズとかローティ、マッキノンとかが人権について書いてる『人権について』で、ローティの「人権、理性、感情」を読んだ。

ローティは人権についての基礎づけ主義的な議論は時代遅れで不必要だとするエドゥアルド・ラボッシの立場を擁護してて、人間の本姓についての知識を探求する立場としてプラトンやカントを引き合いに出して、人権文化の出現・発展はプラトン・カント的な道徳的知識の進展には負うべきところはなく、感傷的なストーリーを聞こことにすべてを負っていると主張してた。そして、自分の主張はメタ倫理学的なものではなく、プラグマティックなものであり、プラグマティストにとっては実在論反実在論も実質的な区別がなさそうだ、ということも言ってた。

ちゃんと紹介できるほどしっかり読めてないけど、面白かった。最近の気になっていることに近い問題意識で書かれているように思えた。哲学的な道徳についての議論が現実にどんなふうに関わってるのかとか、人間には云々の性質があるだとか、実在論だとか認知主義だとかいろいろあるけど、結局現実をよくすることとどんなふうに関係してるのっていつも思ってしまう。それは多分哲学的な道徳に関係する議論に対するあまりに実践重視的でプラグマティック態度なんやろうけど、結局のところそういうことが自分は気になる。

 

ローティはベイアーをすごく評価してるみたい。ヒューム研究者。反理論の話もしてたから読んでみる。

 

シンガーの動物の話とかも理論として、議論としての完全性というよりも、動物の受けている残酷な仕打ちが人々の行動を変化させたように思える(理論として反論する余地のない主張が出てくるまで行動を変えられなかったらいつまでも応用倫理も実践哲学も現実と接点を持てないきがしちゃう)。人権についても、人権っていうのが完全な哲学的議論に基礎づけられているというよりかは、「自分たちが人権と呼ぶもの」を侵害されている残酷な仕打ちを目で見たり、耳で聞いたり、文章を読んで触れることで、共感と想像力を働かせて「そんなことはあってはいけない」と思うから、人権っていうラベルで自分たちの行動を一定制限するっていう慣習ができてるだけな気がする。

考え方がナイーブすぎるかな。

 

スーパーで買い物して帰る。

論文読む。反理論と応用倫理の話。どちらかと言うと筆者の道徳理論理解の話が面白かった。現実の反映として道徳理論を見るというより道具みたいに道徳理論を見ましょうよという感じ。その発想と応用倫理って相性いいんじゃねって感じ。次はちょうどその論文を受けてイギリスのコロナ対策を論じた論文があるからそれを読む。

 

ウィリアムズの勉強会。今日は1個目の論文を読み終わる。いろいろ聞いて勉強になる。

 

10時半に終わったけど夜ご飯まだなので作る。

食べたらその論文を読もう。

 

今日は勉強会しか予定を入れなかったことで非常にいろいろやらなきゃいけない事が前に進んだ。こういう日を週に一回は作るべきやな。

 

体も休まった気がする。

明日からまた頑張ろう。