脱怠惰

毎日書こうとすると続かないので、気が向いたら書く

2024/03/09

自分ひとりの部屋

p 189-90

でも、メモをたどって自分のこれまでの思考過程を批判的に振り返ってみるに、みなさんに本を書いてほしいというわたしの動機は自分勝手なものばかりでもありません。これまでいろいろな意見を連ね、しばしば脱線もしてきましたが、その中には一貫してひとつの信念がありました。つまり、良い本とは望ましいものであり、良い作家というのは人間の堕落の諸相を呈してなお、良い人間なのである、という信念です。本能と言ってもいいかもしれません。というわけで、みなさんにもっと本を書いてくださいとわたしは申し上げながら、あなたにとって良いことを為してくださいとお願いしていたわけです。この本能ないし信念は正当なものだとどうやって説明すればよいのか、わたしにはわかりません。大学教育を受けてないないわたしに、哲学的な言葉はうまく使いこなせません。

「現実」とは何でしょう?とても不規則なもの、とても頼りないものに思えます。粉塵の舞い上がる道路で見つかることも、街路に落ちている新聞の切れ端に見つかることも、陽を浴びたラッパスイセンに見つかることもあります。一部屋に集った人たちを照らし出し、何気ない一言に刻印を押します。星空の下で家路につくひとを圧倒し、静寂の世界のほうが言葉ある世界よりも真に迫っていると思わせたりします。そうかと思えば、ピカデリーの喧騒の中を走るバスで見つかったりもします。はるか遠くの、どんな性質のものかわからないものに宿ったりもします。ともあれ「現実」は触れるものを何であれ不動のもの、永遠のものにします。一日の皺くちゃになった皮を垣根に放り投げてなお、残ります。過去が終わっても、わたしたちの愛と憎しみが過ぎても、「現実」は残ります。

わたしが思うに、作家というものはこの〈現実〉を見据えて生きるチャンスに他のひとより恵まれています。作家の仕事は、この〈現実〉を探し、収集して、他の人たちに伝えることにあります。少なくともそれが『リア王『エマ』失われた時を求めて』を読んでわたしが感じたことです。これらの本を読むと、まるで診察台に横になり五感に手術を施されたようで、以前よりももっと鮮明にものが見え、世界は覆いを剥がされ、より強烈な生命を与えられたように感じられます。非現実ときっぱり決別して生きているのは羨むべきひとたちで、頭を打たれてもそれとわからず気にもしないのは憐れむべきひとたちです。したがって、お金を稼いで自分にとりの部屋をお持ちくださいと申し上げるとき、わたしはみなさんに〈現実〉を見据えて生きてくださいとお願いしています。〈現実〉を前にした人生は、それを本に書いてひとに知らせることができるかはともかく、活気のあるものになるでしょう。

 

冒頭で3段落も引用するべきではないな。

ウルフの言う「現実(リアリティ)」がわかるようなわからないような。もっと小説を読まなわからんのかな。

高校の時に『こころ』を読んで、人間の現実味というか、「人間とか人間の社会ってこういうふうなところがあるな」って感じた気がする。そういう意味ではエンタメ小説的なものよりこういうのがすきなんやろうけど、ここ最近はとくにしっかり小説を読めていない。

忙しいからといいたくなるが、忙しくて素敵な小説も読めない人生で本当にいいのか?

 

終電をなくして歩いて帰ったので、気合いで、全身全霊をかけて早起きする。無事早起きして、お風呂まで入ってバイトへ。

 

なんやかんや働く。本読んだり話したり。これで時給出るのやばくないか??

 

バイトのあとは家でしっかり昼寝、体力が回復する。

 

後輩とラクロス。もうすぐできなくなるからやっておく。

 

いえかえって勉強して寝る。