脱怠惰

毎日書こうとすると続かないので、気が向いたら書く

2023/12/13

夜中

フルハウスを見る

ほんまにベタ、ベタもベタ、ベタベタ

でもそれがいい。今日研究室であだち充のタッチの話をしたけど、古典がベタなのは古典がベタを形成してるからって話だった。まさにこれもそう。ベタベタです。

If you don't try new things, you're never gonna know what you're missing on.

素直に毎回感動しております。ガキがかわいすぎる。

 

朝、死ぬほど遅く起きたので、自尊心を傷つけられながら這って大学へ。

 

食堂

イカとオクラ和えみたいなやつたべるけど、イカの味もオクラの味も消えてしまってるな、、、ネバネバを食べてるだけ、、、おいしいけど

 

3限、生命倫理、老化の話。

普通に不死になりたいな。

 

そのあとバイト

終わって少し作業して、すき家でご飯食べて帰る。

 

百万遍あたりで後輩をそれぞれ別々に4人見かけた。この辺にたくさん生息しているんだな。

 

帰ってきて二次文献を読んでいたら眠くなる。

1時間半ほど睡眠をとる。なぜか某先生の家(雪山にある城みたいな家だった)に同期と行く夢を見た。謎すぎる。入口が沢山あった。

 

起きたので続き。

 

キャンセルカルチャーって面白い現象やなと思う。
それに関連して、一回間違ったことをした人にどんな反応をするのかっていうのも面白い問題やなと思う。もちろんその間違ったことのある意味での大きさによってその評価の変化にかかる時間が変化するのは前提としても、その間違ったことをした時点からある程度時間が立っている場合に、それは昔のことだからと今のその人と昔のその人を切り分けることができたほうが健全だし、できてしかるべきだと思うと同時に、今のその人と昔のその人をやはり同一視してその間違いに関する悪さみたいなのをその人に帰属してしまう人間の心理も十分理解できる。後者の心理があるから、何十年前にした間違ったことの情報であってもその人の評価に大きく影響するんやろう。この2つの心理?は究極的に調停不可能な気がしてしまう。それは国家の歴史的責任みたいな話のときも同じかもしれない。
もし何か間違ったことをして、その瞬間に昏睡状態になって50年後に目が覚めたとすれば直観的には時間が経ったことによる薄れみたいなものは周囲の人間の記憶の薄れでしかなくて本人に対する許されの程度があまり変化しないであろうということを考えると、やはり本人に内在的な変化が許されを発生させる構成要素のひとつなんやろうなあ。こういう発想はパーフィットの人格論と結び付けられるかもしれない。パーフィットはもちろんめっちゃ昔にした悪いことの悪さや責任は時間が立っていれば薄まる的なことを言っていた。理由と人格の三章は人格の同一性についての形而上学的な議論もやけど、そのインプリケーションに言及する最後のあたりがかなり面白い。

 

今日もこのあとフルハウスを見て、話せたら少し話して寝よう。